寄稿集

「人」という不可思議な生き物

東京工芸大学准教授:野口靖

SEINOの活動を俯瞰するときまず印象に残るのは、「人」に対する強い関心と愛情だろう。それは生半可な表層的な愛情ではなく、人の持つ不完全な部分、利己的な部分、醜悪な部分までをも包み込む、深い慈愛なのではないだろうか。それは、時には冷酷なまでの観察力によって、その対象者の本性を露わにすることもあるし、病気と向き合う中での自身の身体との対話、様々な状況に置かれた自身と社会との関係に対する問いかけとして表出する場合もある。しかし、その根底に流れているものは、「人という不可思議な生き物」に対する絶え間ない興味と愛なのだと言える。

SEINOの初期の代表作である「Have a nice day.」においては、軽度の知的障害を持つ叔母を、密接な繋がりを保ちながら参与観察した。彼女の叔母は、毎日早朝外に出てフライパンを叩いて叫んだり、四六時中近所の人々に罵声を浴びせるなど、近隣住民にとってはかなりのトラブルメーカーだったらしい。よくニュースで面白おかしく報道されるような内容を想起させるが、叔母が軽度の知的障がいであることを近隣住民は知らなかった。この事実は、知的障害者の存在に対する世間の無知や偏見を私たちにまざまざと見せつける。感服するのは観察対象者に対するSEINOの向き合い方だ。本作のテキストからは、彼女が叔母の障がいから来る言動を一切否定せずに、実の娘のように慕われる唯一の存在になる程、強い精神的な関わりを持っていたことが伺える。このような徹底した行動からは、作家の表現者としての覚悟を読み取ることができる。また、障害者という非常にデリケートな問題にあえて正面から真摯に取り組む姿勢には感服するものがある。「Low Temperature Burn」は、前述の作品とは打って変わって、自己と徹底的に向き合った表現だと言える。人種差別、ジェネレーションギャップ、カルチャーショックなど、イギリスでの最初の半年間は作家にとってつらい体験であったようだが、その体験をもとにした表現となっている。この作品の中で、SEINOはその後の作品群の特徴の一つである額顔面補綴の技術を応用しており、さらに内部にウォーターバッグとシリコンヒーターを使うことにより人の体温に近い再現している。これらの試みは、現在のメディアテクノロジーを積極的に利用した表現の萌芽を見ることができる。この作品において非常に興味深いのは、この時代の作家の感情が作品の大きな原動力となっていると同時に、その感情が喚起された社会環境に鑑賞者の意識を誘う点である。つまり、徹底的に自身のもろい感情に向き合うことによって、作家を取り巻く社会環境の矛盾にまで言及しているという点である。このことによって、本作は多くのことを私たちに語ってくれる。更に、「Noisy & Smelly」においては、婦人科という場所を独自の視点から観察している。作家が興味を抱く婦人科という場所において幸福と不幸が奇妙に同居する状況は、人間社会が持つ矛盾は常に表裏一体の関係で、様々な状況に遍在しているという事実を気づかせる。

これらの作品群と一見対照的なのが、新作である「Home Sweet Home」だ。同一の建物を中心で仕切った、全く別の二組の家族が住んでいる家の写真を淡々と撮影したものである。SEINOは人の自我や欲望の現れを一貫したテーマとしているが、この作品の表現は非常に軽やかであり社交的な印象を受ける。前述の作品が徹底的にシリアスな題材をシリアスに表現しているのに対し、ある種の洗練や余裕も垣間見える。しかし、雨や曇りの多いイギリスでの撮影にも関わらず、おどろおどろしくさえ感じる程の色鮮やかな画面からは、「住む」という基本的な営みをつかさどる家に現れる人間の自我と欲望の薄気味悪さを感じることができる。

SEINOはその経歴を彫刻分野において始めているが、その後国際メディカルアートスクールにおける顔面などの人工補綴技術の習得、The Glasgow School of Art Master of Fine Art修了など、様々な分野および制作環境において活動してきた。更に、自身の作品における鑑賞者との相互作用性(インタラクティビティ)の重要性の認識から、現在、彼女は筆者が教鞭をとっている東京工芸大学大学院芸術学研究科メディア専攻博士課程後期に在籍し、インタラクティブメディア学科において研究制作に励んでいる。また、これまでの表現活動に更なる可能性を見いだすべく、それまで経験したことのなかったプログラミングやセンサ技術などのメディア技術を習得している。1990年代に流行を迎えたメディアアート分野は、現在ではよりコンセプトや問題意識が重視される傾向にあることからも、作家のこれまでの制作活動にメディア技術が融合していく事によりどのような表現が生まれるか、今後を注目していきたい。

(「SEINOイギリスでの仕事展」によせて 2013年2月)


オムニバスな逸話集を貫くまなざし

東京工芸大学教授 石川健次

準備中という新作のスケッチと並んで、留学していたイギリスで制作した今回の出品作でもある《Noisy & Smelly》や《Low Temperature Burn》の作品画像を初めて見たとき、私は動揺した。グロテスクにも映るそれらは、本来はセクシャルな、魅惑的な印象を誘うのだろう黒髪や陰部が、そのような印象をかけらも垣間見せることはなく、むしろ不穏な空気と異臭にまみれた、触覚的で立体的な量塊、あるいは皮膜として私の視野をふさいだ。肝心なのは、そのような量塊、皮膜が、深刻で切実な作家の日常や屈折へと私を瞬時に導いたことである。画像という平坦な短形に押し込まれていたにもかかわらず、だ。群を抜く喚起力−−−と続けるのは、いささか早計に過ぎるだろう。そのとき私は、まだ実見していない。画像というコピーを通して、片鱗に触れたというべきだろう。SEINOにとって国内では初めてとなるこの個展は、私には片鱗の正体と出会う最初の機会である。小稿では、作品画像を初めて見た際の動揺を思い返しつつ何度かSEINOと交わした会話のなかで巡った思いにも触れ、会場を訪れる人が鑑賞に際してわずかでも参照となるように努めてみたい。

2つの型取りされた陰部が皮膜のように左右に並ぶ《Noisy & Smelly》は、産婦人科に通院するなかで体験した出来事にもとづく。出産を控え、幸福に包まれる女性と、別の理由で訪れた不幸な女性が隣り合う産婦人科を、作家は奇妙な場所だと言う。「幸福な女性のおなかに宿る心音が、大音量で待合室にまで響く。何時間も不幸な女性はその音を聞かされるのだ」(作家コメント)。妊婦にとって幸福の象徴でもある心音は、別の理由で産婦人科を訪れる作家には「ノイズでしかなかった」(同)。幸福な女性を象徴する左側の陰部からは、無断で録音した「幸福の女性のお腹に宿る心音」が流れ、不幸な女性を象徴する右側の陰部には無数のハエがたかる。徹底して自虐的にも映る内容に、マゾヒズムにも似た倒錯を想起するのは、私が異性であることとも無縁ではないだろう。乱暴を承知で言うと、作家が「ノイズでしかなかった」と言うとき、たとえば電車で隣り合った人の耳元から漏れるシャカシャカという音を私は思い浮かべる。本人には愉快な音楽も、私にはイライラの原因でしかない。性差を無視して軽々に論じるあやうさは、言うまでもない。産婦人科での「ノイズ」を電車での「ノイズ」に見立てる(やつす?)のは、相対化するという口実のもと、都合よく端的に言い切る方便として安易なネーミングやレッテルを押し付けるジャーナリズム等が、往々にして繰り返す誤謬に似ているかもしれない。

イギリスで生活した証として結実したのが《Low Temperature Burn》だ。ホームシック、カルチャーショックに泣きあかした枕は、乾くことがなかった。自分の頭のかたちそのままにへこんだ枕を見て、今まさにそこに横たわっている自身をどこか宙から眺めている気がしたこともあると漏らす。涙が浸み込んだ枕はやがて分身のように思え始め、ついにセルフ・ポートレートとして新たな生命を与えられる事になった。セルフ・ポートレートには、しばしば理想的な自分が投影される。そうであって欲しい自分が、都合良く自身の手で描かれる。“暴かれる”のではなく、文字通り“つくられる”のだ。しかしSEINOのそれは《Noisy & Smelly》と同様、徹底して自虐的だ。自分の手で弱さが“暴かれる”のだから……。

弱者、あるいはマイノリティへのまなざしは、SEINOとの会話のなかで私が強く印象づけられた1つであるのは紛れもない。この個展に出品されている《Have a nice day.》は2005年に亡くなった軽度の知的障害を持つ叔母との、幼少の頃からのかかわりを記録した写真などで構成されている。この作品に触れて、「叔母とのかかわりは、すべての作品におけるコンセプトの原点的な思考をうみだすきっかけともなった」(同)と作家は吐露している。《Noisy & Smelly》に描かれる体験も、《Low Temperature Burn》が映し出す証も、《Have a nice day.》に刻み込まれる葛藤も、すべてが作家にはかけがえのない私史である。個展ではSEINOという個人の私的な逸話が、さまざまにつづられるだろう。制作年も舞台も異なるそれらが、まさにオムニバスな逸話集の体裁をとりつくろうなかを、弱者あるいはマイノリティへのまなざしが通奏低音のように貫く。共鳴し合う鼓動が、たとえば陰部や黒髪、枕、あるいは叔母とのさりげない日常に潜在する。絵画や彫刻、メディアアートといった既存の素材、形式のなかで、行儀よく自己の関心や志向の折り合いをつけようとは、SEINOは考えないだろう。自己の関心や志向に沿うように、むしろ素材、形式を自在に選択し、アレンジし、創出さえ試みる。自己を同化させるのではなく、自己に同化させる。そのような姿勢も私が強く印象づけられている1つである。

(「SEINOイギリスでの仕事展」によせて 2013年2月)


「善き生」に向けられた芸術表現の開拓ーーSEINOとボイスとの係わりについてーー

東京工芸大学教授 平山敬二

ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys, 1921-1986)の没後、すでに28年が過ぎようとしている。1984年にボイスが来日した当時、ボイスの主張する「社会彫刻」や「拡張された芸術概念」といった思想は、多くの反発や誤解を招きながら、強大な一つの嵐のように、日本の美術界を吹き荒れた。日本におけるボイス受容やボイス理解を巡っては、最近においても折に触れてさまざまな検証がなされており、現代におけるボイスの芸術思想とその活動の影響の大きさは、直接的と間接的とを問わず、世界においてと同様に、日本においても、否定することのできないものとなっている。

SEINOの一連の仕事にもその影響は明らかに見て取れる。SEINOは自らのアーティストステイメントにおいて、「美術家の仕事とは、人々が生きる上で遭遇する困難からの逃避や余暇の先にある額縁の中だけの快楽を提供するのではなく、政治家、教育者、活動家などと同様に、社会との関わりの中でその活動と作品の社会的存在価値を見いだすことに意義があると考えている。」と記しているが、これはまさしくそのことを示している。ボイスが主張した「社会彫刻」や「拡張された芸術概念」とは、まさに現実から切り離された「額縁の中だけの快楽」としての芸術の在り方の拒否であると同時に、芸術による現実や社会そのものへの介入であり、あるいはそのようなものとしての芸術の在り方やその方法の革新である。

ボイス芸術思想の根底に、われわれはカント以来のドイツにおける美学思想の伝統が脈々と流れていることを見て取らなくてはならない。特に重要なのはフリードリヒ・シラー(Friedrich Schiller, 1759-1805)の美学思想である。シラーの『人間の美的教育について』(1795年)によって提示された<芸術の力による社会変革の思想>がそれである。カント美学の研究を基礎に、美を「現象における自由」として捉えたシラーは、さらにこの美による自由の実現というものを、教育や政治の問題にまで拡張し、最終的には「最高の芸術作品」としての「美的国家」の建設を人類の目標として提示するのである。ボイスは、自ら主張する「社会彫刻」というものを、「社会という大きな綜合芸術作品」とか、「最高の芸術作品としての社会」などとしても語るのであるが、このボイスの構想は、最終的な意味において、シラーの美的国家の構想と重ねて捉えられ得るものであると考えられる。

このシラーの芸術による社会変革の思想に淵源を持つと言ってよいボイス的な「社会彫刻」や「拡張された芸術概念」の具体的な展開の在り方は、今日的ないわゆるパブリックアートと言われるものの中でも、特に社会問題と深くかかわるさまざまな表現活動において端的に現われている。SEINOの一連の表現活動も基本的にはこの系譜に沿うものと言ってよいであろう。しかしもちろんそこには表現者としてのSEINOの独自の世界がある。SEINOのアーティストステイトメントに戻るならば、そこでは次のように述べられている。「私の関心事は、専ら『ヒト』である。私が興味の対象とするのは、誰しもがそれぞれの生活の中で経験し、認知しながらも、無意識に思考の優先順位から外され忘れ去られる、或は意識的に避けて通り過ぎている、障害者、病気や死、過剰な自意識などに基づくヒトの興味深い性質や、それを顕著に表すエピソード、またはその行為が残る物質や環境である」。

SEINOのこれまでの表現活動を振り返るならば、そこには、人々から偏見を持って無視されまた差別される障害者や病者や弱者たちに寄り添おうとする温かいまなざしや励ましとともに、多数をしめる健常者たちへの祈りにも似た人間としての呼びかけが通奏低音として鳴り響いている。だが時にはその祈りは、暴力的とも言えるような自らの悲しみの体験に根差した抑えがたい怒りの表明によって、掻き消されてしまっているように感じられることもある。

アーティストステイトメントではさらに次のように述べられている。「私の活動は特に、表面に浮かびづらい事実の中からあぶり出された、人間の本質や社会の矛盾を作品表現に再構成し、それぞれの問題を喚起する事で、鑑賞者にヒトという生き物の興味深さを見つめ直すきっかけを提供し、社会的視野の拡張を促進するのを目的としている」。今回の『SEINO Exhibition – 鮮やかな幽体展 – 道端に存在する鮮やかなる死者の幽体。残された人は何故そこに花を供えるのか。』においては、交通事故という不慮の事故により死んだ人間に対し、生花を供えるという普通にみられる人間の行為のシミュレーション(模擬実験)的追体験と、それらにかかわる記録を通して、人の死の意味について互いに問い考える場を生成しようとするものであると思われる。

このような試みは、現代における環境美学と環境倫理に通底する新たな芸術表現の開拓であり、また現代における「善き生」への問いに向けられたボイス的な意味での「拡張された芸術概念」の在り方の優れた一事例であると言うことができる。

(「SEINO鮮やかな幽体展」によせて 2014年1月)