HAVE A NICE DAY.

君子ばちゃんストーリー
君子ばちゃんがこの世を去ったのは昨日のことのよう
私たちの間に仏壇など必要ない
部屋には、君子ばちゃんと私の写る写真
いつも持ち歩いていた白湯
ハイカラな物が好きだった君子ばちゃんのために選んだ花器には
季節の切り花を欠かさずに生ける
君子ばちゃんがくれた大量の一円玉の入った黄色い瓶
死ぬまではめていた金の指輪や日記を
たまに引っ張り出しては触ったり眺めたりする
母方の伯母:梅森君子は、七人兄弟の三女として
福島県双葉郡富岡町の裕福な家庭で育った
3歳になる頃、君子ばちゃんは高熱を出し知的障害者となった
君子ばちゃんは、自分が障害者だと自覚していなかった
私が幼い頃、君子ばちゃんは家によく遊びに来ていた
私たちは、同じ川口市に住んでいた
君子ばちゃんは、母が買い物に行っている隙を見てはベランダでタバコを吹かし
その吸い殻を父が丹誠込めて育てた花壇に埋め隠していた
父は、それをすぐに見つけ出し
母が浮気をしているのではないかと疑った
「君子ばちゃんなんて大嫌い!もう家に来ないで!」
幼い私は、君子ばちゃんの振る舞いに腹を立てた
それから、君子ばちゃんは本当に来なくなった
15年が経過したある日
君子ばちゃんの夫:梅森おじさんが死んだ
梅森おじさんもまた、知的障害者だった
私は、葬式で君子ばちゃんと再会した
それから、母は君子ばちゃんと会うようになり
毎度、抱えきれない程の食糧を渡していた
ある日、君子ばちゃんの住むアパートを訪ねると
隣人の部屋の前に大量の生米が盛られていた
君子ばちゃんは「雀の餌だ」と言っていた
その米は、母が与えたものだった
母は怒りに震え、君子ばちゃんと私は雀を待った
君子ばちゃんの家にある電化製品は、全て使い物にならず
割れた窓ガラスからは、隙間風が吹き付けていた
湯もガスもない
オレンジ色の蛍光灯が灯るだけだった
そこはゴミ屋敷だった
おとうさんの かねは かあちゃんの かね
うちには ぜったいに かえりたく ありません
いやになりました
おとうさんが なくなってから ちょうど はんとしあまり たちます
けれども なくなってからは とても さみしいです
かなしくて たまりません
ちゃんと にゅういんひも はらって しゃっきんも ありません
それは えらいと いわれましたけども
ゆうこ(私の母)は うるさくて いやになりました
〈日記より〉
君子ばちゃんは、人からもらった物や拾った物を全て取っておいた
周囲の人々もまた、貧しそうな振る舞いを見せる君子ばちゃんに
いらなくなった物を与え続けた
一人暮らしの狭い部屋には、10人分の布団、30本の傘
一生かけても着ることの出来ない数の服が詰め込まれていた
君子ばちゃんは、たまに全身ピンクの装いで出かけた
親戚は皆、みっともないからやめるよう厳しく注意をした
君子ばちゃんは、ピンクの自分を私にだけ誇らしげに見せてくれた
もし、私がきーさんだったら……
彼女に愛情を注ぎ、更生させられるのは血の繋がりのある者だけなのよ
母の口癖だった
当時の母は、君子ばちゃんを思うと夜も眠れない日が続いた
私は、母の考える幸福と君子ばちゃんが感じる幸せについて考えていた
母と私は、休日の度に君子ばちゃんのアパートへ向かった
母は、君子ばちゃんが私たちに依存しすぎない距離にある
土地へ引っ越しさせたいと考えていた
母は、君子ばちゃんを出来るだけ早くゴミ屋敷から解放したかった
しかし、君子ばちゃんは、末の妹である母の助言には耳を貸さなかった
執拗に更生を強いる母に対し、いつも聞くふりを演じていた
5月のある嵐の夜、君子ばちゃんは突然姿を消した
母と私は、明けても暮れても捜し続け、最悪の事態まで考えた
郵便ポストの狭い隙間から部屋を覗き
彼女が首吊りをしてはいないかと何度も確認した
まえかわには いきたくありません
できれば いまの アパートが いいです
ゆうこ(私の母)なんか だいきらいです
なんで よけいなことをして アパートなんか さがしたの
べつに おまえに たのんだ おぼえは ありません
んだけど せいの(私の父)のはなしによると
きたない アパートだから ここに……
ぜったいに アパートには かえりたくはありません
かえるつもりは ありません
ぜったいに かえりません
おんせんに とまりあるいて
おかねがなくなったら じさつします
おとうさんの ところへ いきます
〈日記より〉
数日後、君子ばちゃんは突然帰って来た
夫の遺影を胸に抱き、思い出の場所を旅して来たのだと答えた
母から逃げたかったのかもしれない
私は、そう思った
あとは あたみと おだわらに いきます
うちにかえったって つまらないんで いやになります
おかあさんと おんせんめぐりに……
ふたりで たびをして たのしく くらしたいんです
ふたりで たびをしています
おとうさん とてもやさしくて しあわせです
おかあさんは とても しあわせです
6月26日(土)
こんや にはく あすは どこへいきましょうかね
ふたりのたびは とても たのしく
かあちゃんと いっしょに たびにいく
おうちには かえりません あすは あたみに いきます
あたみに いっぱく そのつぎは おだわらへいって
また それから かんがえる あと にはくは いきます
ふたりは いつも いっしょに たびをします
とてもたのしいりょこうです
〈日記より〉
引っ越しの朝、母と私はゴミの山を崩しせっせと外へと運び出していた
すると、そこへ沢山の近隣住民が集まって来た
君子ばちゃんは、近所では有名なトラブルメーカーだったのだろう
群衆は、君子ばちゃんの引っ越しを祭りのように喜んだ
彼らは、一人、また一人と母に駆け寄り
君子ばちゃんに対する文句をまき散らし始めた
君子ばちゃんは、2階からその様子を眺めていた
母は苦情の窓口となり、姉の奇行を詫びた
君子ばちゃんは、毎朝早くからフライパンを叩き
「朝だぞ、起きろ!バカ!起きろ!バカ!」と叫んだり
四六時中、近所の人々に罵声を浴びせていたそうだ
アパートで君子ばちゃんの撮影をした時
近所に住む人が、外で遊んでいた子供を家の中に引き戻し
ドアや窓をぴしゃりと閉め、こちらの様子を窺っていたのを覚えている
文句を言いに来た人々の中で
君子ばちゃんが知的障害者だと知る人はいなかった
母と私は、日曜日になると君子ばちゃんの新居に通った
君子ばちゃんは、いつもドアの外で待っていた
近所の人々にも恵まれ
君子ばちゃんの顔つきは、以前と比べとても穏やかに変化した
私は、母に内緒で時々君子ばちゃんの家へ行った
君子ばちゃんは、私を実の娘のように可愛がった
暑い日に「おばさんがジュースあげるからね」と
私が買って来たジュースを差し出し、伯母としての立場を満喫していた
私は、君子ばちゃんの庭を常に花で埋め尽くした
君子ばちゃんは、とてもきれいだと言うが
水道料金がかかるので水を与えなかった
次の日曜には、決まって花は枯れていた
川口市には、「たたら荘」と呼ばれる共同浴場があり
60歳以上の高齢者に1回50円で入浴を提供している
君子ばちゃんは1週間に2度「たたら荘」を利用していたが
とても少ない量の石けんやシャンプーで洗うため
依然として体臭がきつかった
君子ばちゃんには、歯を磨く習慣がなく
虫歯が数本歯茎に残るのみだった
母が与えた歯ブラシは、台所の湯のみに立て掛けられ埃を集めていた
「たたら荘」では、体重と血圧を測ってもらっていた
君子ばちゃんは、いつも「私はどこも悪いところがない」と言い
脚を引きずって歩く隣人を見ては
「近所に障害者がいる」と私に何度も話した
ある日の深夜、君子ばちゃんから
足首が痛くて立つことが出来ないと電話があった
母と私は、アパートへ駆け付けた
君子ばちゃんが足をこちらに向けると、強烈な臭いが鼻をついた
傷口は、活火山のように盛り上がり
大量の膿みを吹き出していた
どうして、こんなに悪くなるまで言わなかったのか……
昨日会った時は、近所の噂話しかしていなかったのに
「やっぱり、きーさんは知的障害者なんだ」
母は、そう言った
医者には、傷が完治するまで通院が必要だと言われた
私は近くの病院を探し
地図を描いたり、車で道順を説明したり、一緒に歩いたりして
何度も病院までの道順を君子ばちゃんに教え込んだ
上手く歩けない君子ばちゃんを車に乗せ、買い物に行ったりもした
そんな日は決まって、君子ばちゃんは
他の5人の姉妹に電話をし、楽しかったことを話した
君子ばちゃんは、私の運転する車に乗るのが大好きだった
他の人の車には一切乗らなかった
君子ばちゃんの足首の傷が1年以上経っても完治しないので
私は糖尿病を疑い始めた
君子ばちゃんは、かつて暴食家であり
バランスのとれた食事はして来なかった
母と私は、君子ばちゃんを検査に連れて行く計画をした
そんな矢先のことだった
君子ばちゃんがスリに遭い、救急車と警察が来ていると
近所に住む女性から電話があった
アパートに駆けつけ、群がる人たちをかき分けると
部屋の前にチョークで描かれた君子ばちゃんのシルエットが残っていた
母と私は、君子ばちゃんが担ぎ込まれた病院へと急いだ
病院の扉を潜ると、処置室から君子ばちゃんの大きな声が聞こえた
事情聴取に来た刑事2人に対し、スリへの暴言を吐いていたのだ
刑事たちは、つじつまの合わない話に頭を抱えながら病院を後にした
君子ばちゃんは母の姿を見つけると「ごめんなさい」と小さくつぶやいた
鞄を守り転倒した君子ばちゃんは
大腿骨骨折と糖尿病の治療のため
2ヶ月間の入院生活を余儀無くされた
大腿骨の手術は成功したが
麻酔で眠っていた君子ばちゃんは
自分の足は折れたままだと思い込んでいた
週末に、家族で見舞いに行くと
君子ばちゃんは、帰った後が寂しいから来るなと言った
私は、週に何度も一人で君子ばちゃんに会いに病院を訪れた
入院中、君子ばちゃんのアパートを掃除した
一度も洗った形跡のない炊飯器
カビの生えた魚焼き機
私がお茶を入れたままになった急須
こたつ布団やラグにたくさんのタバコの焼け跡を見つけた
アパートの保証人になっていた母は、怒りに震えていた
こたつの下から「上山さん好きです。」と書かれた小さな紙切れが出てきた
おそらく、上山さんとは「たたら荘」で出会ったのだろう
この紙切れを手渡すつもりだったのか
それとも少女のようにその恋心を文字にしたためただけか
母は頭を抱え込んだが、私は嬉しく思った
君子ばちゃんの妹である千恵子から
君子ばちゃんを千恵子の住む福島県楢葉町の特別養護老人ホームへ
入所させようという提案が持ち上がった
楢葉町に住み要介護認定を受け
介護する家族を持たないことが入所の条件であった
千恵子は、君子ばちゃんを自宅に呼び寄せ生活を共にする計画だった
母は、千恵子の負担を考えると、その案には賛成出来なかった
しかし、千恵子は、自宅に君子ばちゃんを招き入れることに決めた
退院の日、私が君子ばちゃんを送り届けることになった
梅森おじさんの眠る墓に寄ると
君子ばちゃんは、涙を流しながら夫へ別れの挨拶をした
そして、君子ばちゃんを千恵子宅まで送り届けた
姨捨山に老親を置き去りにするような気持ちだった
私は、君子ばちゃんと別れたくなかった
君子ばちゃんが去った後のアパートで小さなノートを見つけた
それは、君子ばちゃんが東本郷のゴミ屋敷に住んでいた時の日記だった
そこには、母に対する不満や悪口が沢山書かれていた
自由気ままに暮らしていた君子ばちゃんにとって
母の監視下で規則正しい生活を強いられたことが辛かったのだろう
楢葉町に移り住んだ君子ばちゃんは
そこでもまた、千恵子の悪口を近所に言ってまわっていた
田舎の小さな街でクリーニング店を営む千恵子からの束縛は
母のそれよりも大きかったのだろう
君子ばちゃんは、デイサービスに行くようになると
家事は全て自分がやっていると嘘を言い、杖なしで歩き回った
その言動は、要介護認定を取得するための大きな妨げになった
君子ばちゃんは、約1年半の居候を経て
特別養護老人ホームに入居した
施設の職員にも恵まれ、元気に暮らしていると聞いていた
私は、千恵子や母の苦労は理解していたが
世間体や常識の束縛から自由になった君子ばちゃんに
残された時間を生きたいように生きて欲しいと心から思っていた
数ヶ月経った早朝、電話を取ると
君子ばちゃんの様子がおかしいという知らせだった
程なくして、君子ばちゃんの死亡が確認されたと連絡があった
朝食の時間になっても起きて来ないことを不審に思った施設の職員が
冷たくなった君子ばちゃんを発見したそうだ
施設に入り、つかの間の自由な生活を満喫した君子ばちゃんは
先に逝った両親と兄に引き寄せられるように
2005年11月25日の寒い朝
眠ったまま静かに息を引き取った
君子ばちゃんの屍は、福島県の本家に運ばれた
葬式に集まった人々は、愉快に酒を酌み交わし、悲しんでいる者はいなかった
私は、君子ばちゃんの上に載せられたドライアイスの塊をどかし
添い寝をしながら、半開きの瞼の奥を覗いていた
僧侶は、君子ばちゃんにカメラを向け続ける私を
「障害者に対して不謹慎だ」と叱った
重い扉の向こうで、君子ばちゃんは赤い炎に変化していった
私は、その色と熱を扉の隙間からずっと覗いていた
そして、ピンク色したまだ温かい君子ばちゃんの頭蓋骨をつかみ
地中深くへとかえした
今日もいい天気だ
Have a nice day, 君子.
基本情報
・ 制作:2001年~
・ 種別:写真・テキスト
・ サイズ:9枚・H577 W395(写真1枚)/5400文字(テキスト)
・ 素材:銀塩プリント・アクリルマウント(写真)/インクジェットプリント(テキスト)
解説
本作品は、SEINOとその伯母:梅森君子(2005年11月25日他界)の関わりから生まれた極めて私的な作品です。SEINOは、知的障害者である梅森の晩年の生活を支援する過程において梅森に唯一慕われる存在になり、実の親子のような信頼関係を築くまでに至りました。
しかし、その一方で、梅森を取り巻く周囲の人々の言動に様々な違和感を覚えたと言います。例えば、梅森が好む全身ピンクの装いがみっともないと近親者が着替えを強要したこと、梅森の言動に対する近隣住民による過剰な変質者扱い、梅森の屍にカメラを向けたSEINOを叱責した「障害者に対して非常識だ」という僧侶の言葉などに対し、「障害者が目立つ服を着ては何故いけないのか」、「少し変わった人をすぐに社会の周縁に追いやるのは何故か」、「障害者にカメラを向けることを何故倫理違反だと思うのか」など、何とも整理のつかない漠然とした「違和感」を抱いていたとSEINOは言います。
しかし、後に出会った障害学により、これらの「違和感」が障害者に対する偏見や差別であるという「確信」へと姿を変え、SEINOは、障害者を無意識的に差別する心に揺さぶりをかけることを目的とした芸術活動を続けています。梅森の存在は、芸術という術しか持たないSEINOを、一見芸術とは無関係である障害者問題の扉の向こうへ宿命的に導きました。さらに、その宿命は、SEINOを象牙の塔での芸術研究から引き摺り下ろし、社会に根ざしたソーシャル・アートへと誘いました。
本作品は、梅森とSEINOの関わりを記録したドキュメントです。梅森とSEINOの関係は、梅森を嫌っていた幼年期、梅森の存在を長く忘れていた少年期、梅森と深く関わった青年期と一様ではありません。SEINOは、ありのままの梅森の生き方を受け止め、深く関わり始めた2001年から本作品の制作を開始しています。
協力
梅森君子